「慰霊の日」
決して忘れてはいけない沖縄戦。
米国側は1万2520人、日本側はその15倍、18万8136人が亡くなったとされています。このうち沖縄出身以外の日本兵は6万5908人、沖縄県出身の軍人・軍属(ぐんぞく)(正規の軍人、防衛隊や学徒隊など)は2万8228人。一般の住民は9万4千人。沖縄県民全体では12万2千人以上、県民の4人に1人が亡くなっていることになります。
また、太平洋戦争中の昭和19年、沖縄から疎開する学童らを乗せて九州に向かっていた「対馬丸」が、アメリカ軍の潜水艦の攻撃を受けて沈没。800人近い子どもを含む多くの犠牲者が出ました。
国は当時、この事実を明らかにせず、対馬丸の悲劇から80年がたつ今も、遺族は真実を追い求めています。
アメリカ軍が沖縄に上陸する前に沢山の子供達が犠牲になった「対馬丸事件」についてまとめました。
慰霊の日とは
慰霊の日(いれいのひ)は、戦争や災害などで亡くなった人々を追悼し、その霊を慰めるための日です。特に日本では、6月23日は「沖縄慰霊の日」として広く知られています。今日、第二次世界大戦中の沖縄戦が終結した日とされており、戦争で命を落とした人々を追悼するための特別な日となっています。沖縄県知事、総理大臣や衆議院・参議院議長などが参列する「沖縄全戦没者追悼式」が行われます。開催場所は、沖縄県糸満市にある「平和祈念公園」で、沖縄戦で亡くなられた方々のご冥福と世界の恒久平和を祈願します。
沖縄県全域では、正午の時間とともに黙祷を捧げるのが習わしです。
また沖縄県民はどうか、皆様の魂が安らかでありますように。そして、この世界が再び戦争の悲劇を繰り返さぬよう、私たち一人ひとりがこの痛々しい戦争を忘れないよう戦没者の皆様に、心からの感謝と敬意を表し、平和への誓いを新たにするため公休日となっています。
対馬丸撃沈事件
1944年、太平洋戦争は激しさを増しており、日本本土への空襲や沖縄への攻撃が予想されていました。そのため、日本政府は沖縄の民間人、特に子供たちを本土へ避難させるための疎開を進めていました。
対馬丸は、民間の貨客船で、主に貨物と乗客を運ぶための船でした。この船は沖縄から長崎へ民間人を疎開させる任務を担っていました。
対馬丸は他の疎開船団と共に沖縄を離れ、東シナ海を北上していました。
8月22日の夜、対馬丸は沖縄本島北西の東シナ海を航行中に、アメリカ海軍の潜水艦USSボーフィン(USS Bowfin SS-287)に発見されました。
USSボーフィンは対馬丸に向けて魚雷を発射しました。その結果、対馬丸は被雷し、急速に沈没しました。沈没は非常に迅速で、多くの乗客が脱出する時間もありませんでした。
この攻撃により、兵員ら1,788人のうち、疎開学童784人を含む1,484人が死亡しました。(沖縄県公文書館)
対馬丸事件は、戦争がもたらす無差別な悲惨さを象徴する出来事として、現在も多くの人々に語り継がれています。沖縄には対馬丸の犠牲者を追悼する記念碑が建てられ、毎年追悼式が行われています。この事件を通じて、戦争の恐怖を忘れず、平和の重要性を再確認することが求められています。
対馬丸記念館
対馬丸記念館は、対馬丸事件の悲劇を後世に伝え、犠牲者を追悼するための施設です。沖縄県那覇市にあり、訪れる人々が歴史を学び、平和の大切さを再認識するための場所となっています。
対馬丸の詳細な模型が展示されており、当時の船の構造や航行の様子を視覚的に理解できるよう工夫が施されていました。
また、沈没事件で亡くなった方々の遺品や遺物が展示されています。これらは、犠牲者の生活や人となりを感じることができるものです。
事件当時の写真や生存者の証言映像なども展示されており、歴史的な背景や事件の詳細を学ぶことができます。
対馬丸記念館は、対馬丸事件の悲劇を風化させないための重要な役割を果たしています。また、訪れる人々が戦争の恐怖や悲惨さを学び、平和の大切さを再認識する場として機能しています。特に若い世代に対して、過去の悲劇から学び、平和な未来を築くための教育の場として重要な存在です。
対馬丸記念館を訪れることで、個々の犠牲者の人生に思いを馳せ、平和への誓いを新たにする機会が提供される場となっています。
対馬丸記念館
対馬丸記念館フォトギャラリー
まとめ・感想
慰霊の日は沖縄戦で亡くなった方々を追悼する日です。
対馬丸もその追悼されるべきとても悲しく悲惨な事件です。対馬丸記念館にいって私たちはその恐ろしさをリアルに体感しました。乗船していた学童はほとんどが10代です。どれだけ怖い思いをしたのでしょうか。
私たちには計り知ることができませんでした。また、生存者の方はこう言いました。「私と私の家族は対馬丸に乗っていました。アメリカ軍からの魚雷の攻撃で9人の家族が亡くなりました。私は生き残ったけどみんなと一緒にいっていた方が良かったのか、生きていた方が良かったのか未だに分かりません。」と話していました。
幸運にも生き残ったと思うでしょう。ですが未だこのように自分だけ生き残った後ろめたさを感じたり、語り部として話せない人はたくさんいます。
私たちはまた後世に語り継げる貴重な体験が出来たと思っています。
戦火の中で、家族や愛する人々と引き裂かれ、未来を奪われた多くの方々がいました。その痛みと悲しみは、計り知れないものであったことでしょう。
私たちは、あなた方の犠牲を決して忘れません。その犠牲の上に築かれた平和を守り続けることが、私たちの責務であると深く心に刻みたいと思います。